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ツブヤキニッキ

死者たちの存在感に言葉を失う小説(朝日新聞より)

いい小説だ。人が生きる空間の幅と深さを、とてつもない言葉の力で押し広げる。読み終わったあと、虚脱感と充実が同時にやってきて、自分の足裏の底がぬけた。それでいて、いまここにいる自分自身が、底のほうから力強くあたたかく抱きとめられたようでもある。誰によって?死者たちによって。


間近に迫った自分の死を、静かに迎え入れようとしている男。彼はアイニェーリェ村という廃村に、ひとり取り残され、長い年月、超絶した孤独のなかで生きてきた。自分が死ねばベルブーザの村から男たちがやってくる。誰もいなくなった村を荒らしにくるだろう。


男のなかから記憶の川があふれだす。祖父が死に両親が死に、長く知った人々、そして息子が、村を、自分を、見捨てていったときの哀しみ。妻ザビーナとふたり取り残された後、その妻も神経を病み、厳寒の12月、雪のふる夜、粉挽き小屋で首をつる。使われたロープは、果樹園を荒らしたイノシシを銃で撃ち殺した後、玄関の梁に吊るすために使ったものだ。一度は投げ捨てたそれが、春がきて、再び雪ノ下から現れたとき、男はロープをザビーナの魂として、自分の腰に巻きつける。彼の傍らには名前のない雌犬が、みすぼらしい「神」のようにいつもつきそっている。その犬のために取っておいた最後の弾で犬を見おくったあと、男はいよいよ死を待つ準備をする。


彼の周りに現れてくる死者たち。母親やザビーナ、4歳で死んだ子サラ、戦争で消息を絶った長男。彼らは言葉で語らないが、確かにそこにいるように感じられる。そして男はまだ生きているのに、肉体の輪郭は解かれつつあり、中空に漂う魂ひとつのような存在感で、私たち読者に語りかける。


タイトルの「黄色い雨」とは、秋の空からふりしきるポプラの色づいた枯れ葉であり、生と死のあわいをぬらす幻影の時雨でもある。著者は詩を書いていて、のちに散文に移った。土と血の臭いを伝える濃厚な文章。刺すような哀しみと、自意識のない透明感がすばらしい。言葉を失う小説である。─(小池昌代・詩人)