す も も の 缶 詰

ツブヤキニッキ

朝日新聞より

江戸川乱歩の随筆を好む人ならば、乱歩がどれほどウールリッチ=アイリッシュの『幻の女』に惚れ込んでいたかご存知だろう。私も乱歩の激賞に煽られて読み、失望した。幻の女の消失トリックのちゃちさに呆れたのだ。まだ中学生、なんにもわかっちゃいなかったのである。


ウールリッチの小説は謎解きとしては欠点だらけだ。その欠点を補って余りあるのが、ぞくぞくするほどロマンティックで誘惑的な文体であり、運命の前ではすべての人がひとしく挫折するという、彼の小説すべてを包み込むペシミズム哲学の暗闇のような深さである。


こんなに甘くて苦い小説ばかり書いた人間はどんな生涯を送ったの丘?上下2巻、1000ページ近い本書を書き上げた著者(そして細心の注意を払って日本語に移し、原書以上のデータを充実させた翻訳者)の情熱もそこから発している。


だが、この本を通読しても、ウールリッチの生涯について知りうることはそう多くない。20冊ほどの長編小説と200以上の短編を残したが、人生の大半を母親と二人きりでニューヨークの安ホテルにこもって過ごし、享年64の葬儀には5人しか参列者がなかった。


それでも著者は存命の関係者に話しを聞き、あらゆる資料を博捜する。その結果、ウールリッチの最初の結婚の失敗と、彼のスーツケースに入っていた水兵服の関係など、なまじなミステリーよりはるかに面白い秘密が暴露されたりもする。


また、ウールリッチをハメットと並んで古典的ミステリーの世界観を破壊した重要作家とみなすなど、推理小説史論としても本質的な問題を提起している。


だが、本書の大部分をしめるのは、彼の全作品(!)の紹介と分析である。ウールリッチの小説を墨から墨まで何度も読み返した者にしかかけない巧みなプロット紹介で、私も本書を読みながら、忘れていた短編が記憶の奥からよみがえってくる興奮を幾度となく味わった。


著者はいう。ウールリッチの世界について書くことは、いつのまにか彼の人間を書くことになる、と。その確信の正しさを証明した真摯な好著である。─中条省平学習院大学教授・フランス文学)