セルビア文学を初めて読んだ。セルビアは旧ユーゴスラビア連邦共和国に属し、歴史的には大戦や複雑な民族紛争に翻弄され、解体と再生を繰り返してきた。内戦の後、03年にセルビア・モンテネグロと国名を変えた。こうした情報は、とりあえずは入ってくる。でもそこには一体、どんな人間がいて、何を考え、日々を暮らしているのか。
登場する人々は、愚かで弱く、家族を愛し、友を裏切り、悪いこともする。なんだ、私と同じじゃないか。ただ、少し違うのは感情の「深度」だ。彼らは深く絶望し、深く悲しみ、深くよろこび、そして深く憎悪する。その姿は、どくどくと波打つ心臓の鼓動の音、つまり生きるということを、改めて私に思い出させる。
舞台はナチス・ドイツ占領下のセルビアの首都ベオグラードの下町、ドゥシャノヴァッツ。そこで青春期をすごした、リューバという男が主人公だ。彼は戦後、東西冷戦下の祖国から、すべてに絶望し出国をするが、受入れ国では結局、政治的な亡命者として処理され、現在はスウェーデンで妻とその連れ子と暮らす。複雑によじれた、熱い望郷の念を抱きながら。
そんな彼が語る祖国での過去。その人生は、ねじれて汚れた太い荒縄を想像させる。しかし彼の「底」はとても明るい。生き抜いてやるなどと意気込むわけではない。むしろユーモラスに脱力している。その姿勢でともかく前進する。女の子にもてればいい気にもなる、どこにでもいそうな男なのだ。
パルチザン活動をしていて突然捕まったまま帰らない兄。空襲が始まって学校が休みになると、町は無法者たちの天下である。あるとき、リューバは、ドイツ兵とつるんでいた淫売の女を、8人の悪い仲間と襲い、力ずくで初体験をする。終わると、娼婦は「・・・あんたたちのお袋なんか、死んじまえばいいわ」と悪態をつく。その姿はこっけいで、とても悲しい。このとき一緒に襲った仲間の1人、親分格のストーレが、後に、美しい娘に成長したリューバの妹を強姦し、彼女を自殺に追いやってしまう。リューバはそれを知り、復讐を企む。そしてストーレは死んだ。ボクサーであったリューバは、時には人を死に至らしめることもある、「力」の裏表をよく知る男である。
彼ら男たちは、こうして様々な「敵」を倒すために単純に権力や暴力をふるう。悲しいのは女たち、ことに彼らの母親たちだ。娘に自殺されたリューバの母、リューバに息子を殺されたストーレの母。殺したほうも、殺されたほうも、互いに家族のように見知る者たち。母たちは暴力を使わないかわりに、ときには相手を許そうとし、自らの存在理由を失い、衰弱することでしか、暴力というものに抗えない。
本書は68年に発表され、世界15カ国で読まれてきた出世作の本邦初訳。暴力を行使する者と死会社という対立が描かれるが、そこには対立しているはずの二者を、とけあわそうとする、著者のあたたかく乾いた視線がある。─小池昌代(詩人)