す も も の 缶 詰

ツブヤキニッキ

魅力あふれる女性の半生描く「大きな小説」

とにかくおもしろくて、夢中で読んだ。1920年滋賀県に生まれた、持丸ハルカの半生である。尋常小学校に通い、高等女学校に通い、師範学校に通い小学校教師になり、20歳のとき見合いで結婚したものの、軍人の夫、大介は外地に駐屯しているため、新婚早々義父母と暮らし、太平洋戦争が激化したとき、夫のあらたな駐屯地、渥美半島で暮らし、終戦を迎え、戻っていた実家で子どもを産む。大阪に住み、夫が事業を興すと、その行く先を案じたハルカは幼稚園に職を得て働き始める。


何がそんなにおもしろかったのか。戦争、敗戦、高度成長期と、変化に富んだ時代の、市井の人の暮らしが、である。その時代、どんなふうにたいへんだったか、という話を聞いたことはあっても、どんなふうに楽しかったか、ということは聞いたことがない。楽しいなんて感想自体がタブーなのだ。しかしどんな時代であろうと、人は、一日のなかに何かしら、ささやかな楽しみを見出したはずである。激化した戦争のなかで、よく知りはしない夫と、まったく知らない土地に暮らし、孤独と不安に押しつぶされそうになりながら、ハルカは藁半紙一枚の「女の一生」のプログラムを何度も読む。


楽しめる、ということは、ハルカという女性の最大の美徳であり魅力である。このたくましい女性は、女学校時代、ないものをないと嘆くより、あるものをあると喜ぶことを選ぶ、「そのほうが、たのしい」と気づく。彼女を支え続けるのは、この気分だ。ハルカの人生を不幸だとすればいくらでもそう断じることもできる。終戦を迎えやっと生活が落ちついたころには夫の事業はうまくいかない。度重なる鞍替えとつねにちらつく女性の影。胸のときめく恋をすれば、相手はハルカに金を無心する。しかしいつ何時もハルカは空を見上げている。楽しめることをさがしている。ハルカという人物が醸し出す気品、気高さは、その市井から生じている。人はかように気高く生きることが可能であると、ハルカ自身から教えられたような心持になる。


この作者ならではの、緻密な人物関係図も魅力のひとつである。ハルカの家族、大介の両親、隣近所の人々、そして一生つきあうことになる女学校時代の友人たち。ハルカがハルカらしく時代を生き抜くさまと同様に、作者は彼らひとりひとりの行き方も手を抜かずに書ききる。読み終えるころには、近所に住まう実在のだれかのように、ひとりひとりが思い浮かぶほどだ。


どのようにも読める小説である。昭和の歴史としても読め、ひとりの女性の行き方としても読め、この国の価値観、性差感の変化としても読める。また、家族小説とも読めるし恋愛小説とも読める。そんな単純な括りが馬鹿馬鹿しく思えるほど、大きな小説である。


読み終えると物足りなく感じる。60代、70代のハルカも読みたかった。もちろんこれは不満ではなく、ハルカという女性に魅了された読み手としての賛辞である。─(角田光代・作家/朝日新聞