す も も の 缶 詰

ツブヤキニッキ

朝日新聞より

北ドイツに、カレーソーセージという食べ物があるらしい。立ち食いの屋台で食べる、庶民の味。このs−セージは、人々のあいだでなんとなくできあがったものではなく、あるひとりの女性の発見したものだと考える「僕」が、かつてハンブルクで屋台を出していた老女、レーナを訪ねるところから、物語ははじまる。「僕」は老人ホームに暮らすレーナのもとに通い詰め、カレーソーセージの誕生秘話を聞き出していく。


カレーソーセージ発見の背後には、膨大な時間と偶然の連なりがあった。第二次世界大戦終戦直前、ひょんなことから知り合った若い水兵を、脱走兵としてレーナはかくまうことになる。やがて戦争が終わっても、家から一歩も出られない彼に、レーナはその事実を告げられなかった。20代の、故郷に妻も子どももいる彼に、部屋を出て行ってもらいたくなかったからである。レーナが息子ほど年の違う彼に抱いた思いは、恋愛よりももっと粗野で荒々しい、強い感情に思える。ここから小説はスピードを増し俄然おもしろくなる。著者は、40代のごく普通の女性の日常を描くことで、戦禍のハンブルクの輪郭を描き出す。老いたレーナは「僕」に言う、あのころが「人生でいちばん楽しかった」と。その後のカレーソーセージ「発見」までの経緯は、痛快なほどドラマティックだ。脱走兵も、また夫も失ったレーナが生活をたてなおす経緯は、そのまま、敗戦国の復興の歴史である。


カレーソーセージという食べ物の話でありながら、ひとりの女性の人生史でもあり、そうしてまた、これは戦争を描いた小説でもある。正確な記録だけが戦争の記憶を伝える手段ではない、それをどのように噛み砕き消化し自分なりに理解するか。「楽しい時期だった」と老婆に回想させることで、著者は戦争の異様さを、自分なりに消化したその時代を切り取った。否応なく時代に生かされる人の、かなしさとたくましさを描き出した。物語のおもしろさもさることながら、戦争という負の記憶をどう調理するかという自由さをも、私は味わった。─(評者:角田光代/作家)