す も も の 缶 詰

ツブヤキニッキ

朝日新聞より

かつて、一冊の本や一枚のレコードを探して都内を歩き回った時代があった。いまや、インターネットの発展は、とうに市場から消えたものすら、たちまち発掘してしまう。


してみると「歩くこと」の意義も変わったのか。かつて「イギリス人は歩きながら考える」と評されるライフスタイルを理想とした時代も終わってしまったのだろうか。


19世紀中葉のアメリ東海岸に暮らした自然文学(ネイチャー・ライティング)の元祖ソローは、そもそもわたしたちが「歩くこと」をほんとうにわかっていたのかどうかを、考え直させる。


タイトルこそ、あたかも健康法マニュアルのように映るかもしれない。だが、最晩年である1861年ミネソタ旅行をきっかけに書かれた本書がまず思いめぐらせるのは、「そぞろ歩き」(ソンタリング)が「聖地」(サンテ・テール)へ向かうことなのか、「土地なし、家なし」(サン・テール)なのか、という語源にまつわる諸説であり、著者は逡巡の末、前者を選ぶ。


中世の時代、聖地へ向かうという名目で施しを乞いながら全国を徘徊していた放浪者のすがたを尊重し、「歩くこと」の背後に、異教徒から聖地を奪還する十字軍の勇姿を幻視するのだ。


ソローにとって、歩くのは誰にでもできる運動ではなく、天賦の才能を必要とし、余暇、自由、独立を象徴するものであり、方角にしても、ヨーロッパという過去の蓄積が位置する東ではなく、あくまで未来の冒険が広がる西をめざす。


ソローの思想は徹底して個人的な境地へ向かいつつも、その実、南北戦争より以前に培われたアメリカの帝国主義的領土拡張政策の精神をそっくり写し取っている。しかしまったく同時に、本書は、たんなる「有用なる知識」よりも「有用なる無知」の美しさを、そして「知的存在との共感」を実現するような知性こそ肝要であることを説く。


広大な自然をそぞろ歩きながら知性の限界を突き抜けようとする知性の洞察は、いまなお深い。─巽孝之(慶応大学教授=アメリカ文学