す も も の 缶 詰

ツブヤキニッキ

朝日新聞より

いかなる社会にも後ろめたい部分は存在する。西洋においてその最たるものは、言うまでもなく反ユダヤ主義の伝統である。ホロコーストは20世紀の鬼子であるナチスが引き起こした特異な現象であったというのが今日の一般的な理解であろう。しかしその根元に、西洋社会の反ユダヤ主義という長く、かつ暗い歴史があることは否定できない。


著者は、帝政ロシアに生まれ、長くパリに住み、ナチス占領下で南部非占領地域で潜伏生活をした経験をもつ。亡命ユダヤ人であり、反ユダヤ主義の研究者として世界的に知られた碩学である。本書は全4巻(邦訳では、別の1巻を加えて全5巻の予定)からなる著者の主著の第1巻であり、古代から17世紀までを扱う。


ユダヤ人の歴史についてはすでに日本語でも本格的な書物がいくつもあるが、反ユダヤ主義という角度から歴史を追った本書は、西洋史を裏側から見るという独特の趣を持つ。反ユダヤ主義は小谷は存在せず、また近代以前の非西洋世界にも存在しなかった。それがはっきりとした姿を示したのは11世紀末、十字軍の時代の西洋であった。民衆の熱情が身近な異教徒であるユダヤ人迫害をもたらし、権力者は過剰な暴力を抑制しつつもユダヤ人を差別し、時に資金源とした。


黒死病への恐怖、魔女狩り宗教改革の熱情といった西洋社会の変動は、そのたびに反ユダヤ主義を再生した。それはユダヤ人が社会階層として定着しえたポーランドのような例外を除いて、神話的、空想的な内容だったが、現にユダヤ人がいる所では、その排撃の口実として用いられた。繰り返される迫害の過程を通じて、ゲットーに住まい、苦難を耐え忍ぶというユダヤ人的心性も形成されてきたのである。


描かれた内容は、人類史の中でも最も恥ずべき、残虐な事績の繰り返しでありながら、著者の文体は感情を超えて冷静で、時にユーモアも交えられている。誤解を恐れずに書けば、知的な意味で退屈させない。透徹した歴史記述の神髄を味わえる一書である。─中西寛京都大学教授=国際政治学