す も も の 缶 詰

ツブヤキニッキ

朝日新聞より

まず、本書ブックカバーの表と裏を彩るタツノオトシゴの絵が目を惹く。


表のほうはポットベリード・シーホース。その名のとおり、まるまると膨らんだ太鼓腹の中心の孔より毎分一匹ないし二匹の赤ん坊をあびただしく産み落とすが、第一章で作家である著者はそれをうっとりと見つめ、あたかも自ら長引くお産を終えて疲れ切った「哀れなシーホース」になったかのように感じる。


裏のほうはウィーディー・シードラゴン。海藻ともみまごう優雅と憂愁とを兼ね備えたその美しさは、「仲間を引き寄せたり、色とりどりの礁に溶け込んだりするための、進化上の必要性から生じた」としか思われないが、最終章を迎えると、やがて本書の主人公である画家自身がこのタツノオトシゴと化す・・・。


2001年に発表された本書は、オーストラリア南東、タスマニア出身の著者が、19世紀前半に英国からファン・ディーメンズ・ランド(現在のタスマニア)へ流刑となった囚人画家ウィリアム・ビューロウ・グールドの手になる「魚の本」を見つけ、幻惑されるところから始まる。著者はこの「魚の本」に収められた36葉の魚の絵に無限の想像力を感じ、前述の2種類のタツノオトシゴを含む全12種類の魚類を選び出してモチーフに据え、この囚人画家が歩んだであろう奇想天外な人生を幻視した。


流刑植民地の成立から司令官の野望たる大麻雀館の建立と病の蔓延、英国海軍による侵攻とクーデター、司令官殺害と奇跡の復活、そして灼熱地獄と化した島の再建・・・。これら主人公が目撃する事件の連なりは、限りなくゴシック・ロマンスに近いタスマニア史なのである。


はたして事件の展開に伴い、魚の中に人間が見出され、魚が人間の内部に入り込み、魚が人間に復讐し、ついには人間が魚そのものへ変容していくところは圧巻だ。ゆえに最終章では、この小さなウィーディー・シードラゴンが決して「絶滅の危機にある進化上未発達な種」にとどまらず、壮大なる歴史への洞察を宿す可能性が実感される。2002年度英連邦作家賞受賞作。─巽孝之(慶応大学教授=アメリカ文学