す も も の 缶 詰

ツブヤキニッキ

朝日新聞「読書」欄より

いい小説を読んだあとは、感動がその作品をつきぬけて、小説というジャンル全体に及んでしまう。小説というものに対して改めて目を見張りたくなるのだ。本書はまさにそういう1冊。

目新しいことが書かれているわけではない。ジュンパ・ラヒリは、人間のごく基本的な感情について書く。誰もがよく知り、どこかで経験したかもしれないことを書く。しかし誰もそのことを、あえて表現しなかった、表現できなかったことを書くのである。

女が男の靴に、こっそりと自分の足をすべらした瞬間。電話が相手に取り次がれるまでにボールペンでいたずら書きした跡。からっぽのティーカップ、説明書がなくなった組み立て式のツリー。バスのなかに忘れてきたみやげものの荷物や、到着の遅れた息子の乗った列車を、数時間も立ちながら待っていた父のこと。

こんなことを、丁寧に、いとおしみながら、ひたと目を据え、淡々と冷静に、職人のように記していく。それは消えていく瞬間に、一つひとつ、名前を与える行為のように見える。こうした一瞬は、次の頁をめくれば、記憶とも呼ばれるものに変化する。小さな記憶が、読者の心にも一つひとつ、積もっていく。私はこの小説に登場する人々を、読んだのでなくて生きたのだと思った。

インドからアメリカに渡ったベンガル人夫婦に、男の子が誕生する。彼の名はゴーゴリゴーゴリ・ガングリー。ロシアの文豪、ニコライ・ワシーリエヴィッチ・ゴーゴリにちなんだ名だ。命名に際しては、祖母や父のからんだドラマがあった。だが本人は、風変わりなこの名がうっとうしくてならない。名前とは不思議なもの。変だ、おかしい、それでなければいいのにと思っているのは、誰でもない、本人だけ。ゴーゴリ、その音に似て、ごつごつした武骨なダイヤモンド、唯一絶対の「わたし」というものを、ゴーゴリ自身がどう受容していくのか。

なんでもない箇所で涙がとまらなくなる。しかし決してしめっぽい小説ではない。ぶっきらぼうで風通しのいい文体を創った訳者の功績も大きいと思う。─(詩人・小池昌代