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犬としてのわたしの人生

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読みかけのままずっと忘れていた、青山南さん(早稲田大学教授、翻訳家)の『木をみて森をみない』というエッセイ集をまた読み始めました。


私は青山南さんの翻訳が好きで、大ファンだったので、青山さんのアメリカ文学の授業を受け、文学や映画、音楽に至るまでの沢山の知識を得、大きな影響を受けたので、私にとっては大恩ある恩師となります。なので以降、青山先生と記します。


それにしても、まだ読んでいる途中ではありますが、エッセイとかコラムとかはこう書くものだよねと再認識させられた文章。翻訳にしても、エッセイにしても、青山先生の文章は好みですが、特にエッセイは、先生の知識の深さが感じられるのがいい。何にせよ、深い知識を持っている人は尊敬します。


さて、タイトルの「犬としてのわたしの人生」は、そのエッセイ集の中の1作のタイトル。映画『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』の直訳で、その映画についての内容。この映画は、私の好きなラッセ・ハルストレム監督の作品で、もちろん私も観ています。


余談になりますが、ハルストレム監督作品はどれも印象的で、中でもジョン・アーヴィング原作の『サイダーハウス・ルール』が大好き。映画の冒頭で、動いているアーヴィングを初めて見たというだけでも感動したのに、背景描写が、これまた私の一番好きな画家であるアンドリュー・ワイエスのイメージで素敵だと思っていたら、まさにワイエスの絵を参考にしたとの事で、さらに感動しました。


で、話を戻しますが、映画は、ソビエトスプートニク2号に1匹のライカ犬が乗せられて、宇宙に飛ばされた頃の話で、そのライカ犬のことを大いに気にかけている少年が主人公。青山先生はその時、小学校の低学年だったそうな。


「そのライカ犬には、映画『マイライフ・アズ・ア・ドッグ』のパンフレットによると、5日分の食糧しか用意されてなかったんだそうだ。ということはつまり、そのうち宇宙で飢死(うえじに)してしまったということだろう。うーむ、このあたりのこととなると覚えてない。」


と先生は書かれている。そして映画全体については


「ちみつなマン・ウォッチングの絶妙な配置が悲しみをスウィートな味に変えてくれているのか、悲しい物語のはずなのに幸福な気持ちで帰ってこれるのだから、これは大変な芸である。」


と評しているのだけれど、映画ではライカ犬のその後は取り上げられていなかったと思うので、この映画を観てもライカ犬がどうなったかは分からない。おそらく…と想像するのみ。だから最後は幸福な気持ちで終わるのも納得です。


ということなので、ここで先生にライカ犬の運命を教えて差しあげましょう。あのライカ犬は、エサがなくなる5日を待たず、スプートニクの装置の故障で内部が高温になったことにより、蒸し焼きになったのです。


それは当時は公にはされなかったので、先生が覚えていなくても当然。また、飢え死にか、蒸し焼きかというのは、大きな問題ではありません。そもそもスプートニク2号は、行ったきりの片道切符。何がどうなろうが、ライカ犬の運命は決まっていたのですから。


だからソビエトの科学者も、何かしら罪悪感があり、ライカ犬の最後を公にしなかったのではないかと推測する次第です。


とまあ、そんなこんなの話の後、続くエッセイの中には、私が通ったアメリカ文学のクラスの話もあってびっくりしたり、アナイス・ニンは“徹底した日記家”であるという話には、小説家ではなく「日記家」?と大いに興味をそそられたり、先生の授業を思い出しながら、懐かしくも面白く読書中です。


この後は、久しぶりに翻訳家・青山南先生の翻訳本を読み返してみようという気になっています。T・コラゲッサン・ボイルがいいかな。