7/7〜7/9まで奈良旅行。行き帰りの新幹線で、富士山が見れたのはたったこれだけでした。残念!
典型的なホテルの朝食
写真に撮るほどのこともない典型的なホテルの朝食ですが、昨今こういう朝食はめったにお目にかからないので、個人的には珍しい。1日目は和定食。翌日は洋定食。だりんは茶がゆでした。結局、この和定食が一番美味しかった。ご飯お代わりしたもの。
奇跡のぶっかけそうめん
本場三輪そうめん。大神(おおみわ)神社の入り口で食べたぶっかけそうめんと柿の葉寿司。最初から最後まですごく冷たくて美味しかった!奈良で一番美味しかった物です。
長谷寺から聖林寺と巡って暑さで倒れそうになっていたのが、奇跡のように瞬時に生き返った!氷も入っていないのに、あの冷たさをどうやって保つのか謎でした。たぶん器から材料まですべてを冷やしているんでしょうね。味もさることながら、暑さに参っている客に対する心配りにありがとう!という感じでした。
ちなみに、ぶっかけそうめんは夏季限定。蒸し暑すぎるので、もう二度と夏の奈良には行かないぞと思っているから、これは最初で最後のぶっかけそうめんになるかも。
冷やしそうめん
こちらが普通の冷やしそうめん。これはこれで夏らしいビジュアルだけれど、個人的にはぶっかけそうめんの方が数倍好き。
わらび餅
小腹が空いたので、奈良名物のわらび餅も注文。お店でわらび餅を食べたのは初めて。見た目も涼しげだし味もGOODでした。もちもちの食感が好き。涼しげなわらび餅といい、冷たいそうめんといい、そういった物が名物になるってことは、奈良は昔から暑かったんだろうと推測させる食べ物ですね。
これからの民主主義
「暮らしの手帖」のカリスマ編集長だった花森安治は平易な言葉で語りかける思想家であった。
「ぼくらの暮しを、まもってくれるものは、だれもいないのです。ぼくらの暮しは、けっきょく、ぼくらがまもるより外にないのです。考えたら、あたりまえのことでした」
武器や夜警で守るのではむろんない。よりましな政治を選び取ることで。よくない政治には異議を申し立てることで。語録に収められた短文からはそんな含意が読み取れる。
昨年来、安保法(案)に反対して国会議事堂を囲んだ人にも、同じような気づきがあったはずだ。
「勝手に決めるな」と叫び、「民主主義って何だ」とコールした。何度か足を運んだが、呼号は、反論をさげすみ、言葉を尽くそうとしない安倍政権への怒りのように響いていた。
対立する主張のいずれに理があるかを、国民の前で言葉で競う。それが近代政治だら、安倍政権はあるべき姿からはずいぶん遠い。はぐらかし。根拠を欠く断言。口だけで実行の伴わない「丁寧な説明」。質問への悪態──。国会の内で外で、思い浮かぶだけでも十指では足りない。
多数派が決めて、少数派はただ従えばいい。白黒つけよう、勝ちか負けか、が民主主義ではあるまい。それではいさかいと分断を生むばかりだ。
かつての英首相アトリーは民主主義の基礎を、「他の人が自分より賢いかも知れないと考える心の用意です」と述べた。異なる意見への謙虚や寛容、柔軟性を失っては、多数者の専横を生み、民主主義というシステムは無残な姿をさらすことになる。
民主主義は、意見を異にするものどうしが、それでも肩を組んで歩こうという仕組みのはずである。
そうした互いの対話も熟議も説得も、すべては言葉で行われる。数をたのむ政治の、言葉への怠惰や横着にならされるのは怖い。野党もまた、常套句を手あかのついた論理で連結してみせただけの政治批判が、ずいぶんと多くはないか。
ゆくゆく憲法をめぐる国民投票ともなれば、この国の社会にかつてない分断のくさびが打ち込まれるかもしれない。民主主義を磨き込んできたはずの英国が陥った混乱は、ひとごとではなくなっている。
そのとき私たちの民主主義は真に試されることになろう。その水域に、いまや入ったようである。
排外的なナショナリズム。ポピュリズムへの喝采。世界を見ればあれやこれやが台頭し、政治と社会の秩序は揺らぐ。
「さて ぼくらは もう一度・・・錆びついている<民主主義>を 探しだしてきて 錆びをおとし 部品を集め しっかり 組み立てる」。これも花森の残していった言葉だ。こんな時代だから胸に畳みたい。
これからの民主主義
「暮らしの手帖」のカリスマ編集長だった花森安治は平易な言葉で語りかける思想家であった。
「ぼくらの暮しを、まもってくれるものは、だれもいないのです。ぼくらの暮しは、けっきょく、ぼくらがまもるより外にないのです。考えたら、あたりまえのことでした」
武器や夜警で守るのではむろんない。よりましな政治を選び取ることで。よくない政治には異議を申し立てることで。語録に収められた短文からはそんな含意が読み取れる。
昨年来、安保法(案)に反対して国会議事堂を囲んだ人にも、同じような気づきがあったはずだ。
「勝手に決めるな」と叫び、「民主主義って何だ」とコールした。何度か足を運んだが、呼号は、反論をさげすみ、言葉を尽くそうとしない安倍政権への怒りのように響いていた。
対立する主張のいずれに理があるかを、国民の前で言葉で競う。それが近代政治だら、安倍政権はあるべき姿からはずいぶん遠い。はぐらかし。根拠を欠く断言。口だけで実行の伴わない「丁寧な説明」。質問への悪態──。国会の内で外で、思い浮かぶだけでも十指では足りない。
多数派が決めて、少数派はただ従えばいい。白黒つけよう、勝ちか負けか、が民主主義ではあるまい。それではいさかいと分断を生むばかりだ。
かつての英首相アトリーは民主主義の基礎を、「他の人が自分より賢いかも知れないと考える心の用意です」と述べた。異なる意見への謙虚や寛容、柔軟性を失っては、多数者の専横を生み、民主主義というシステムは無残な姿をさらすことになる。
民主主義は、意見を異にするものどうしが、それでも肩を組んで歩こうという仕組みのはずである。
そうした互いの対話も熟議も説得も、すべては言葉で行われる。数をたのむ政治の、言葉への怠惰や横着にならされるのは怖い。野党もまた、常套句を手あかのついた論理で連結してみせただけの政治批判が、ずいぶんと多くはないか。
ゆくゆく憲法をめぐる国民投票ともなれば、この国の社会にかつてない分断のくさびが打ち込まれるかもしれない。民主主義を磨き込んできたはずの英国が陥った混乱は、ひとごとではなくなっている。
そのとき私たちの民主主義は真に試されることになろう。その水域に、いまや入ったようである。
排外的なナショナリズム。ポピュリズムへの喝采。世界を見ればあれやこれやが台頭し、政治と社会の秩序は揺らぐ。
「さて ぼくらは もう一度・・・錆びついている<民主主義>を 探しだしてきて 錆びをおとし 部品を集め しっかり 組み立てる」。これも花森の残していった言葉だ。こんな時代だから胸に畳みたい。